私は昭和15年(1940年)小学校入学、翌16年12月太平洋戦争が勃発し小学校は「国民学校」に呼称変更となった。 年と共に戦時教育が強まったものの当時の私が通った学校の教師は、生徒に対しては大変暖かく接して呉れた気がする。戦局の悪化と共に、博多港から戦場に向かう兵士の仮の宿舎として、校舎が代用される事が多くなり、半日遠足と称して往復7〜9キロ程度の郊外へ追い出され、小学校の教室で正規の授業を受ける時間がめっきり少なくなった。
当時は大抵の町中の家の子供は牛乳や新聞配達をしていて、私は「おきゅうと」 売りもした。私の家は職人を置いた印刷所をしていて、生活に困り子供を働かせる家計状況ではなく、多分働く事の大切さを経験させる為の親の実践教育だったと思われる。(*注 おきゅうとは博多の朝の食卓に欠かせない海草食品)
この年になっても当時の「おきゅうと〜わい」という売り声を覚えているのが 懐かしい。早朝の新聞配達は小学校卒業まで続いて 昭和20年8月15日の
第二次大戦終戦の日を迎えた。 この日はお昼の「玉音放送」が終わった後で配る様にと指示され「日本が戦争に負けた」ことが大きく印刷された新聞を雲
一つない真夏の太陽が真上にある日中に、涙と汗をかきながら各家庭に配達したのを、昨日の事のように鮮明に記憶している。
その約二ヶ月前の6月19日「福岡大空襲」があった。米国空軍のB29による焼夷弾爆撃で当時の福岡市街地の半分近くが一面の焦土と化してしまった。若い男手を兵隊に取られ、小学5・6年生が貴重な人的戦力であった当時消火活動の中心であった私も、竿の先の藁縄を水に浸し燃える炎を叩き消して廻った。
後でその日の空襲で1300人以上の人が死亡したと聞き、戦争の酷さ・悲惨さを身をもって体験し、以来65年以上経った今日迄記憶が消える事は無い。自分では思想的には左右に片寄らない柔軟な考えを持っていると自負してるが、事が「戦争」となると絶対的反戦思想になるのは、この時期の体験が大きく影響していて、たとえばカラオケでも軍歌は聞くのも嫌で勿論歌う事も無い。今でもテレビで地域紛争や内戦で亡くなったり傷ついたりした一般市民、特に幼い子供達の姿を見ると胸が痛み武力を行使したもの達に対する強い憤りを覚える。
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