戦中・戦後の混乱期
  
この章は約30年位前にあるお店のミニコミ紙に投稿したエッセイを転載しました。

 リュウは生粋の博多ツ子である。堅粕で生まれ住吉で育った。住吉神社の夏祭りは子供の頃の楽しいイベントの一つで、近所の仲間達と子供神輿をかつぎ参道の露天でカルメラやお好み焼き、アメ細工に目を輝かせた。
 リュウが小学校二年生の時日本は太平洋戦争に突入した。年々物資が不足していった。リュウは母親や兄妹達と空き地にサツマイモ・ジャガイモ・キュウリ・トマトなどを植え自給自足をはかった。何しろリュウは五人兄妹の長男で、父親が徴用で炭鉱に取られた家の中で一番年長の男性であった。兄妹を指揮して水や肥料をやり早く自分達の胃袋に入るまでに育てようと夢中になった。

戦争が激化しますます物資が不足しリュウ達兄妹が丹精をこめて育てたトマトが少し色ずき始めると、いつのまにか誰かに摘まれてしまうようになった。サツマイモ・ジャガイモも小さなうちに根こそぎやられてしまう。朝早く起きて畑に出て無残な跡に立ち、こぶしを震わせ悔しがるリュウの横で幼い兄妹達がベソをかく日が目立った。
 リュウが小学校六年生の時、博多の街の半分近くがアメリカ空軍B29爆撃機の焼夷弾攻撃を受け焼失した。彼もゲートルを巻き防空頭巾をかぶり竹竿の先につけられた硬くよった藁縄を水に浸して、近くに落ちた焼夷弾の火を消して回った。
戦場で敵と戦った経験はなくても、戦争のむごさ無残さはリュウに心の中に深く刻み込まれた。

この空襲で博多の浜よりの街はほとんど焼野原となった。当時市内には貫線と循環線の二系統の路面電車が走っていたが、住吉を通っていた循環線は鰯町や石城町、対馬小路といった浜寄りの家屋や電柱が全て焼失したため、電車への送電ができず天神(今のフタタ前)と新博多(今の千鳥橋)を除く区間で折り返し運転となった。

 当時働ける男性はそのほとんどが戦争と徴用に取られていたので、市内電車の運転や車掌はほとんど女性で、それも学徒動員の女学生が多かった。そんな女学生の何人かとリュウは仲良くなった。年が三っ四っ違っても同じ十代である。「お姉ちゃん」「リュウちゃん」と呼び合うようになるのにいくらもかからなかった。リュウの家の前を走る電車がスピードを落とすと、当時扉のなかった運転台のステップに小柄なリュウが器用に飛び乗り折り返し駅の新博多まで乗っていく。そして乗客の降りた電車はポイント切り替えの旧柳町(今の石城町近く)まで行って折り返さなくてはならない。当時の市内電車は今のパンタグラフ式と違いポール式であった。ポールについたヒモを手元に引き180度廻って進行方向にあわす作業は女性にとっては結構力のいる作業で、リュウが乗ったときは、それが彼の受け持ちであった。

電車のブレーキも今の様なエアー式ではなくバネ巻き方式で女性には相当力のいる仕事だったと思う。その意味では当時の女性は現代女性より逞しかったようだ。
昭和20年8月太平洋戦争が日本の敗戦で終結し、翌年春リュウは中学に進んだ。その頃になると復員してくる人も多くなり、電車の運転台にも男性の姿が目立ち始めた。そして女学生の姿が見えなくなった。リュウにとっての最初の青春がそうやって消えていった。

そしてその青春のシンボルだった福岡市内電車がそれから33年たった、昭和54年2月11日を最後に博多の街中から姿を消した。 来年リュウは50歳を迎える。


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