広島・長崎・福島 |
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分広島市に当時の太平洋戦争の相手国である、アメリカ空軍のB29爆撃機から投下された爆弾は「リトルボーイ」と呼ばれる世界で初の原子爆弾であった。 ただ、我々国民に知らされたのは「特殊爆弾」というだけだった。 広島市内ほぼ中央に位置するT字形の相生橋が目標点とされ、投下された原爆は上空580メートルで炸裂した。 爆発に伴って熱線と放射線、周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こし、その爆風の風速は音速を超えた。爆発の光線と衝撃波から当時は原子爆弾のことを「ピカドン」と呼んでいた。 爆心地付近は鉄やガラスも熔けるほどの高熱に晒され、強力な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発した。苦悶の姿態の形状を示す「水気の無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。また、3.5km離れた場所でも素肌に直接熱線を浴びた人は火傷を負った。爆風と衝撃波も被害甚大で爆心地から2kmの範囲で木造家屋を含む建物のほぼ全てが倒壊した。 爆発による直接的な放射線被曝のほかに、広島市の北西部に降った「黒い雨」などの放射性降下物による被曝被害も発生した。また投下後に救援や捜索活動のために市内に入った人も含めて、二次被害である急性放射線障害よると思われる被曝被害者が多発した。 当時の広島市内には約34万2千人がいたが、爆心地から1.2kmの範囲では当日中に50%の人が死亡し、同年12月末までに更に14万人が死亡したと云われている。その後も火傷の後遺症(ケロイド)による障害、胎内被曝した出生児の死亡率の上昇、白血病や甲状腺癌の増加など見られたという。 広島の3日後の1945年8月9日午前11時2分、米軍の爆撃機B-29が長崎市に世界で二発目となる原子爆弾を投下した。投下地点は、当日の天候のため目標であった市街中心地から外れ、長崎市北部の松山町171番地(現、松山町5番地)テニスコートの上空であった。 原子爆弾は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させた。なお長崎の中心地は爆心地から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微で済んだとも云われているが、浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨なものであったそうだ。浦上教会(浦上天主堂)では原爆投下時にゆるしの秘跡(告解)を行っていたそうだが、司祭の西田三郎・玉屋房吉を初め、数十名の信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。 当時、長崎市の人口は推定24万人、長崎市の同年12月末の集計によると被害は、死者7万3884人、負傷者7万4909人、罹災人員:12万820人、罹災戸数1万8409戸にのぼったという。 長崎市は周りが山で囲まれた特徴ある地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島に落とされた原爆「リトルボーイ」の威力を超えていたとも言われている。 仮に最初の標的であった小倉市に投下されていた場合は、平坦な土地が広がり、本州と九州の接点に位置するために、関門海峡が丸ごと被爆し、小倉市および隣接する戸畑市、若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と下関市まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測されている。 この悲惨な「原子爆弾投下」が引き金になって、昭和20年8月15日 第二次大戦(大東亜戦争)は終戦の日を迎えることとなった。 私は戦争の酷さ・悲惨さを身をもって体験し、以来70年以上経った今日迄記憶が消える事は無い。思想的には左右に片寄らない柔軟な考えを持っていると自負してるが、事が「戦争」となると絶対的反戦思想になるのは、この時期の体験が大きく影響していて、今でも地域紛争や内戦で亡くなったり傷ついたりした一般市民、特に幼い子供達の姿を見ると胸が痛み武力を行使したもの達に対する強い憤りを覚える。 そして広島・長崎での核爆弾投下から66年目の今年3月11日福島第一原子力発電所が大地震と大津波に襲われ崩壊し、東日本一帯が核汚染の被害を受けることになった。 そもそも原子力発電とは、核分裂反応によって発生する熱エネルギーを利用して高圧の水蒸気を作り発電機を回転させて発電させるものであるという。 核分裂反応で絶対に必要な条件はそれを制御出来ることであり、それが原子爆弾と原子力発電の大きな違いだと云われている。 今回の福島原発では、この制御機能が損傷して放射性物質が外部に漏れだし、いろいろな物を汚染していったと思われる。 日本はこれで3回目の核被爆を受けたことになる。66年前は戦争中の原子爆弾によるものであり、今回の福島原発事故は日本国自らが招いた核エネルギー政策によるものだと思う。 ある科学者が言っておられた言葉が、今私の頭の中に張付いている。 「人は核分裂反応を完全に制御することは絶対出来ない」 皆さんは、どう思われますか? |
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