労働と学生生活の両立
  
昭和21年4月旧制中学校入学、国中が敗戦後の混乱から立ち直り始めた時期だった。徴用で炭坑で働かされていた父が帰ってきたが商売用の印刷機械を供出で国に取り上げられ、仕事が出来なくなっていて、7人家族の生活苦の中で私を中学に入れるのは相当大変だったと思われる。従って私も家から4Km離れた学校まで徒歩通学の毎日だった。昭和22年学制改革があり旧制中学は新制中学と新制高校に分かれる事となった。そのため折角試験に合格して入学した私達の学校は「併置中学校」となり、卒業まで下級生が入ってこないままで廃校となった。勿論新制高校には無条件で進学出来はしたが、家族が多く生活の苦しかった我が家では私に後3年間通学させる余裕は無かった。昭和24年3月中学を卒業すると同時に働きに出る事になった。

幸い我が家には写真暗室があり、小学生時代から父の手伝いで写真の技術を会得していた私は近所のカメラ屋に暗室技師として採用され働き始めた。その後自宅の入り口を改造してDPE店を自分で開業した。当時はまだ35mmのモノクロ・フイルムを現像・焼付け・引き伸ばしの出来る技術者が少なく、私の技術は結構評判がよく遠くからわざわざ現像依頼に来られる方が多く繁盛した。お陰で近所にいた中学時代の親友とよくローラースケートなどの遊びをしたものだった。

ただそのような毎日を過すうちに、日に日に高校に入り勉強がしたいとの思いが強まったが、当時は何処かの中学に所属し試験を受けなくてはならなかった。勿論昼間は働かなくてはならないので学校は夜間しか通学出来ない。店を父に引き継いでもらい私は再び通学に便利な場所にあるカメラ店に就職し朝8時から夕方5時までの勤務が終わるとその後夜学に通うことにした。1949年(昭和28年)当時私が住んでいた市には夜間中学は1校しかなかったので、そこの3年に編入学し1年間忘れていた中学時代に習った教科を復習した。その学校は昼間の中学に併置されていて夜学は1教室で1・2・3年生が同室で授業を受けていて、教師は昼間の先生2名が夜間も兼任して教えられていた。3年生で高校進学を目指していたのが5名いて自分達の勉強の傍ら1・2年生の勉強の面倒も見ていた。夜間中学での1年は楽しくもあり苦しくもあり、またいろんな境遇の生徒達と共に同じ教室で学び、悩みや苦しみを語り合える友達を得ることが出来て大変貴重な体験だった。制度的には中学までは義務教育だったが家庭的な事情で昼間の中学に通えない人が、先生方の熱意に支えられて夜9時迄の授業を受けて頑張っていた。1年が経ち高校受験の日が来て我々は昼間の生徒と共に試験を受け、幸いにも高校を目指した私を含めた5名全員が合格し県立の夜間高校に進むことが出来た。

さて夜間の定時制高校は昼間と異なり4年間通学しなければならなかったが、昼間はいろいろな職業について頑張ったあと、夜9時まで勉強するわけで皆んな向学心旺盛な者ばかりだった。休み時間にはそれぞれにその日職場であった出来事を話し合ったり、授業で判らなかったところを訊ねあったりしたが、昼間の疲れで居眠りをするものも何人かはいたようだ。時代の変化も激しく私が働いていたカメラ店も大型店の出現でお客さんが減り始めて私への給料を払うのが苦しくなってきて、3年生の秋ついに解雇予告を受けることになった。学校の就職担当教諭や友人達に事情を話し次の仕事を探し始めたがなかなか見つからなかった。勉強は好きだったが仕事や生活への不安からみるみる成績が落ち始め、教師からも「どうしたんだ?」と注意されるようになった。そして年が明けてまもなく私の一生にとって最大の転機となる話が持ち込まれてきた。

当時の地元民間ラジオ放送局がテレビ放送を始める準備をしていて、「写真現像の技術者を探しているそうだが・・・」との情報が夜学の先輩からもたらされたのである。ただ夜間の学校に通学するのは、仕事の性質上無理かもしれないとのことだった。私は「今仕事を得なければチャンスを失う。勉強は何時でも出来る」と判断して、面接試験を受ける決心をした。


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