サラリーマン時代 |
1958年(昭和33年)2月下旬学友の紹介で「○○テレビ映画社」で面接を受ける。「写真の現像・焼付は出来ますか?」「ハイ、大抵のことは出来ます。」「では明日から来て下さい。」 なんとも簡単であっけなく採用が決まり、私にとっては始めての会社勤めがスタートした。しかし翌日からの仕事は物凄くハードなものだった。朝8時過ぎ暗室に入り写真を焼き始め、その日の仕事が終わったのは夜の11時を過ぎていた。そしてそんな忙しさが連日のように続いた。今思い返してみると若さだったのだろう、辛いとかきついとか全然感じなかったようだ。ただ「これでは学校に行くのは無理だな」と思い休学するのが残念で仕方なかった。 会社は地元の民間放送ラジオ局がその年の4月1日テレビ放送を開始するために設立され「テレビニュース・フイルムの現像・焼付、放送用テロップ写真・スライドの作成」を主な業務としていた。当時テレビジョン放送はNHKと民間放送の日本テレビ・東京放送が放送を開始していて、徐々に地方局に広がり始めた頃で福岡は比較的早い時機のスタートだった。しかし現在のようにネットワーク回線も確立されておらず、地方局は番組の多くを自局で製作しなければならず、仕事は多忙を極めた。昭和33年4月は最初の「統一地方選挙」が行われた時期で全国の立候補者の顔写真も全て自局で用意しなければならなかった。私の毎日は当面このテロップ写真を作成する暗室作業が仕事の主なものになった。選挙が終わると番組宣伝用のスタジオ写真や天気予報のタイトルバック・スライド用の風景写真の撮影、それにコマーシャル写真の撮影と次々と仕事は続き休むことがなかなかできなかった。 一方会社の主業務であるテレビニュース・フイルムの現像・焼付も、東京の映画フイルム現像所での経験豊富なベテランの指導で、地元採用の社員達が日夜頑張っていた。今までと違って幅16ミリ、長さ100フイート(30m)〜400フイート(120m)の長尺フイルムの現像は自動現像機で現像するのだが、当初は時間が掛かりニュースの速報性との競争だった。1秒を争う緊迫した時間との戦いは常に緊張感が漲り、活気ある職場環境を醸し出していて私はニュースフイルムの仕事に携わる人々を羨ましく感じたものだった。 私はその後所属していた「写真課」から「カラー写真課」を経て念願だった「ニュース現像課」に配属された。ここでの経験もまた貴重なもので、普通写真での濃度やコントラストとテレビでのそれが全く違うことを教えられた。当時のテレビ映像は白黒だったが真っ白や真っ黒はテレビでは白跳び黒詰まりといいテレビに合う濃度に調整しなければならなかった。そして当然ながらニュースは時間を選ばないことも経験した。家で休んでいても事件・事故・火事などで緊急呼出しを受け真夜中会社に駆けつけることもしばしばだった。 そんな写真技術畑専門で過ごしてきた私に、昭和39年会社から、突然総務課長昇格の意向打診が行われた。当時の総務課は経理・人事・労務・総務の業務を担当し会社の中枢業務であり私には全く未知の職種だった。私は直接社長に訊ねた。「全く未経験の私を選ばれた理由は?」と…社長は「これからは技術畑のスペシャリストだけでなく会社全体の実態を把握しあらゆる事態に対処できる人材の育成が必要だ。私は君にその資質があると判断して総務課長への昇格を内示した。後は君の努力次第だ。後で私の目が間違いではなかったと言われるようであって欲しい」との答えだった。有り難くお受けし総務課長になった。 その後現像部と総務部を行き来しながら次長・部長・事業本部長を経て、昭和53年取締役・昭和61年常務取締役となり、平成3年役員定年で退任し2年間の顧問を最後に平成5年同社での36年間に終止符を打った。 その後乞われてある会社の総務部長を4年間勤め平成9年退職、40数年間のサラリーマン生活が終わった。 今振り返ると一番良き時代を過ごさせてもらったと感謝の気持ちで一杯である。 |
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