70年を迎える福岡大空襲
  
 昭和20年6月19日23時11分から福岡市内に焼夷弾投下による空襲が開始された。
アメリカ軍はマリアナ諸島を出発したB-29爆撃機の編隊239機で九州を北上して福岡上空に到達し博多や天神を中心に焼夷弾爆撃を行ない、東西は御笠川から樋井川まで、南北は博多湾海岸線から櫛田神社・大濠公園までの一帯が焼失した。

約2時間の空襲により福岡市の3分の1の家屋が罹災。戦後の調査によれば、市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、死傷者の9割を占め、簀子校区は2軒を残して全ての家屋が全焼するなど、あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原と化した。

当時私は小学校6年生であと10数日で12才を迎える少年だった。 そのころ日本の各都市に対する爆弾や焼夷弾による爆撃が毎日のように行われていた。 その為自衛策として木造家屋の中心部の床下に防空壕が掘られていた。現在の床下収納庫の何倍もの広さの周囲は土だけの空間でわずかな食料と水を置いていた。 今思うと木造家屋の床下は空襲で家が炎に包まれると何の役にも立たないことが明白だ。

爆撃音で爆弾ではないと感じて防空頭巾をかぶり家からそっと外に出ると、真っ赤な炎で 夜空に浮かんだ雲が真昼のように明るく町中を浮かび上がらせていた。 焼夷弾は六角形のほぼ50cmの細長い筒状の中に油を含んだ多くの球が入っていて降下しながら筒が割れ周辺に飛散し、火災を広げるような構造になるよう作られていたと思われる。
福岡空襲は天神地区を中心にして行われたが、上述地域のほか、薬院・当仁・新柳町(現在の清川)・平尾・六本松・田島・七隈・姪浜など多数の場所も被災した。

私は清川の横に流れる那珂川の対岸の住吉に住んでいたので周辺に落ちた焼夷弾を消火するため、竹竿の先に固く藁縄を数本束にして結び水に浸して、炎を上げる火を懸命に叩いて消して回った。その際に炎のついた油の球が周囲に四散し軽い火傷を負こともあった。
そのような中で、1931年に建設された奈良屋小学校の鉄筋コンクリート製の一校舎は住民の消火活動もあって焼け残り、翌朝から遺体安置所として遺体の身元確認が行なわれた。
避難所であった旧十五銀行福岡支店(現在の博多座の立地)の地下室は、停電による扉の不作動で避難民が閉じ込められたうえ、空襲の高熱で水道管が破裂。熱湯と化した上水が地下室に流れ込み、62人が熱死するという惨事も起きたと後になって聞かされた。

当時は男性は中学生になると軍事工場に通い労働に従事し、高齢の男性は徴用にとられて炭鉱などでの労働に従事したため、街中は小学生以下の子供と女性が中心で自分達の町を守っている状態であった。
私の住んでいた住吉のすぐ傍の那珂川には柳橋と呼ばれる橋が架かっていたが、当時は人道と市内電車専用の鉄橋が並んで併設されていて白っぽく光る人道の両端は見事に焼夷弾に直撃されて、それを消すのがまだ子供の私達には大変だった。何とか消火には成功したものの馬車・大八車・自動車・リヤカーなどは通ることが出来ず、やっと人だけが通行できたものだった。

後年になって当日の福岡市の被災状況が纏められた記録によると
罹災面積:3.771平方キロメートル
罹災戸数:12,693戸(市内の33%)
罹災者数:60,599人(市内の44%)
死者数:902人 重傷者数:586人 
軽傷者数:492人 行方不明者数:244人 とのことであった。

この空襲で博多湾側の木造家屋は殆ど焼け落ちたため、今迄見えなかった2階屋の我が家の2階からは数キロ先の博多湾や志賀島が見えたし、長崎市に投下された原子爆弾のキノコ雲を見ることも出来た。

私は生まれた時から軍国主義オンリーの教育で育てられていて、日本は神国で戦争に負けることなど絶対ないと教えられそれを信じていたが、この空襲を経験したことで、戦争の怖さを実感するようになり、もしかしたら日本は戦争に負けるのではないかとの不安な気持ちを持つようになった。
それが2か月後現実となり8月15日の終戦を迎えることとなった。

70年前に体験した福岡大空襲は、82歳になる私の記憶に今もはっきりと残されていて 今国会で問題になっている「安全保障法制」についての議論が戦争を体験したことがない人達が主体で進められていることが大いに心配で憂慮している。
国の将来を決めるには平凡な生活をしていた一般市民の体験者の意見を、ぜひ聞き取って正しく生かし間違いない方向性を守ってほしい。

私は憲法9条が今日の日本の平和維持を守り育てていると心から信じている。いつまでも世界中のどこの国とも戦火を交えることのない日本であってほしいと願っている。


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