70年を迎える福岡大空襲
  
 軍国主義の定義は明確なものではないので、どの時代が軍国主義かという点に関しては政治哲学や思想傾向によって大いに議論が分かれると思われるので、ここでは、歴史的な観点から、わが国の軍国主義的な特徴や個別的な事例を述べるにとどめます。

いつからそうなった、とは言い切れませんが、シンボリックな事件といえば、満州事変ではないでしょうか。
1931年(昭和6年)9月18日,満州(今の中国東北区)でおきた日本軍と中国軍との武力衝突が実質的には日本軍による中国への侵略戦争の引き金になったようです。

満州事変の勃発は、世界恐慌の影響で日本経済は深刻な不景気にみまわれ,軍部らの間に,満州を植民地化して危機をのがれようとする動きが強まりました。一方、中国では日本の二十一カ条の要求以来、排日運動が高まっていました。こうしたなかで、1931年(昭和6)年,関東軍(満州にあった日本軍)が奉天(今の瀋陽)郊外で鉄道爆破事件(柳条湖事件)をおこし、これを中国軍のしわざだとして強引に開戦しました。日本政府の不拡大方針にもかかわらず、関東軍はこれを無視して戦争を広げ、わずか5ヶ月の間で満州全土を占領し、軍事的にはまれに見る成功を収めました。

この軍事衝突を境に、中国東北部を占領する関東軍と現地の抗日運動との衝突が徐々に激化しました。満洲国の建国により中国市場に関心を持つアメリカら他の列強との対立も深刻化し、いわゆる、十五年戦争(中国での名称は、十四年抗日戦争)の発端は満州事変を基点としています。

日本軍部は発言力を強め、日中戦争(支那事変)への軌道が確定、中国市場に関心を持つアメリカら列強との対立も深刻化しました。

1932年(昭和7年)日本は満州を形式的に独立させて、満州国を成立させました。中国の訴えで国際連盟(今の国連)はリットン調査団を派遣して、日本軍の行動を不当とし、満州国を認めませんでした。
このため1933年(昭和8)年、日本は国際連盟を脱退し満州事変から太平洋戦争(第二次世界大戦)終結までの15年間、日本と中国との戦いが続いたわけです。

1938年(昭和13年)に国家総動員法が制定されました。時の首相は近衛文麿でした。国家総動員法とは、「総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる」旨を規定したものです。また、1940年(昭和15年)には大政翼賛会が発足しました。
一部の右翼的政党以外は全て解散し、国を挙げて戦争に邁進しました。このように大政翼賛会を中心に大東亜戦争下での軍部の方針を追認し、支える体制が「翼賛体制」といわれるものでした。

要するに、国民は選挙で民意を国政に反映させる事ができなくなりました。そして、国家総動員法に則って、太平洋戦争へと進んでいったのです。なお、国政に異を唱える者がいれば、憲兵や特高(特別高等警察。ゲシュタポみたいな物)に逮捕されました。捕まえる根拠は治安維持法です。また「大東亜戦争(太平洋戦争)を目前にした1941年(昭和16年)3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正が行われました。

ところでシビリアン・コントロールですが、戦前の内閣には陸軍大臣、海軍大臣がいました。文官が反戦的内閣を組閣しようとすると、陸軍や海軍が大臣を出さないと言ってゴネて、結局好戦的内閣が出来上がります。戦争拡大を阻止しようと、好戦的立場のトップだった東条英機をわざと首相にしたりしましたが、結局軍部の好戦的気分を抑えることができず、日本は中国に加えてアメリカ・イギリスなどの世界の列国を相手に戦いを挑むことになりました。

 私はこの様な時代背景の真っただ中に生まれ育ったわけです。ですから物心がついた頃から当然とは言え、軍人を敬い対戦国を敵国視して日本は世界最強の国家だと信じ込まされて少年期を過ごしました。
その様な時代が昭和20年8月15日の太平洋戦争の敗戦を境にして、軍国主義時代が終焉を迎え、一転し何事にも制約されない自由な時代に身を置くことが出来るようになったのです。


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