皇国臣民の教育
  
 当時の小学校は国民統合の機能をもつていました。特に皇国臣民「少国民」の価値観形成に戦前・戦時の小学校(昭和16年度からは国民学校)は決定的な役割を果たしました。知的な学習だけでなく、その身体に対する規律訓練を通して軍国主義的な価値観を注入する場でもありました。そのため、とりわけ天皇や皇室にかかわる各種の学校行事や儀式が重視されました。

詳しくは専門の歴史書にゆずりますが,皇国史観の基本的な主張は次の3点にまとめられます。
(1)日本は神国であり、皇祖天照大神の神勅を奉じ「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする、天皇の神性化とその統治の正当性と永遠性の主張。
2)日本国民は臣民として、古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え、国運の発展に努めてきた、とする主張。
(3)こうした国柄(国体)の
精華は、日本だけにとどめておくのではなく、全世界にあまねく及ぼされなければならない、という主張。

皇民化教育のシンボルとして全国的に共通するのは「奉安殿」の存在でしょう。奉安殿とは天皇・皇后の写真(いわゆる御真影)と教育勅語が納められていた建物です。小学校の奉安殿建築は、御真影の下賜をうけて開始され、昭和10年前後に活性化されたようです。四大節祝賀式典(元旦の四方拝、紀元節、天長節、明治節)には、学校の全職員生徒や地域の有力者が参列し、御真影への最敬礼と教育勅語の奉読がおこなわれました。登下校時に奉安殿の前を通る際にも、職員生徒が最敬礼するよう義務づけられていました。学校の宿直も、この御真影の保護を目的として始められたともいわれました。冬の寒い中、校長の教育勅語の奉読を意味もわからないまま、全員が頭を深く下げ鼻をズルズルいわせながら聞いたという、子ども時代の懐古談も多く当初は講堂や職員室・校長室に「奉安所」が設けられていました。

しかし、災害や火災などの際に、御真影が危険にさらされる恐れがあり、その対策としてより安全な「金庫型」の奉安所にしたり、また独立した堅固なコンクリート建ての「奉安殿」が建設されるようになりました。校舎火災時に、御真影を守ろうとして殉職した校長の「美談」もあったそうです。

岡山県総社小学校の奉安殿は1930(昭和5)年8月28日に竣工しました。校庭東南の一角にある松の木立の中に、瀟洒な鉄筋造りの殿舎が建設され,校長の命により日宿直が警護に当たったそうです。御真影・教育勅語は平素この中に安置され、式日には白手袋の次席教員によって講堂に奉還され、校内に火災などの有事が起これば、何はともあれ御真影を背負い(白い背負い布が用意されていた)総社宮など、あらかじめ設定されている奉還所に移さなければならなかったそうです。奉安殿内部には、校長と二、三の上席教員以外はうかがうことがなかったそうです。なお、同校の奉安殿は敗戦直後に進駐軍の命により取り壊され、現存していません。

昭和20年12月15日のGHQによる神道指令によって、奉安殿は廃止されました。その多くは戦後解体もしくは地中に埋められたそうです。解体を免れた奉安殿が、全国各地に少数ながら残っていて、沖縄市の美里小学校に残るものは、側壁に生々しい弾痕の跡が残る沖縄戦の貴重な戦争遺跡として市の文化財指定を受けています。

我々の世代は、このような環境の元で軍国教育をうけていたのです。

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